七代将軍家継の時代

家継の母は六代将軍家宣の愛妾・お喜世(月光院)の方

もう1人の愛妾であるお須免の方の息子・大五郎が死んでしまったことにより、お喜世の方が出産した鍋松が次期将軍に決定していました

そして家宣が風邪をこじらせ、51歳で死去

家宣は間部詮房と新井白石を呼び「次期将軍は尾張の吉通にするようにしてくれ」と遺言

そのまま息を引き取りました。

が、白石は「吉通を将軍に迎えると尾張の家臣と将軍家の家臣の間で権力争いが起きる。だったら鍋松殿を将軍とし我らが後見人となり補佐した方がいいのではないか?」と意見

この意見に間鍋詮房も同意し「そうだ!我らが補佐すれば大丈夫であろう。もし鍋松殿にもしものことがあったらその時は御三家から迎えればいい」と言ったのです

そうして家宣の遺言は無視され、鍋松が次期将軍になることとなりました

ですが徳川家に代々仕えてきた譜代の家臣らは、元猿楽師である間部や儒学者である白石がエバリくさっているのがムカついて仕方がありませんでした

こうして幼い飾り物の将軍が誕生したのです

家継が7歳の時に、天皇家の皇女(2歳)と婚約

が、家継はふとした風邪がもとで、8歳でこの世を去ったのです


大奥ニ大派閥

家継は8歳で死去したため、側室や愛妾はおりませんでした

そして大奥は、家宣の正室天英院(照子)と月光院(お喜世・家継の母)の2大派閥が出来上がっていたのです

この頃の大奥の権力は凄まじいものとなっており、ある老中が「大奥勤めのものが商人らに気軽に用事を頼んだりすることを禁止する」という通達を出した時大奥から大ブーイングが起きてしまい、その老中を辞職させるという事件まで起きていました

そんな大奥の権力を危険視したため、「江島・生島事件」が起きたのです

月光院つきの大奥御年寄である江島の起こした事件によって、大奥は大パニックに

絵島は遠島となりましたが月光院が減刑をお願いし、高遠へ幽閉となりました

月光院派の女中らは着物や履物を没収され裸足で追放され、この絵島生島事件で罪となった人は1500人以上の大スキャンダルとなったのでした

この事件により、月光院派の勢力はかなりそがれてしまったのです

ちなみに生涯仲の悪かった天英院と月光院は、今は同じお墓に眠ってます